昨日と今日、美術館に行った。絵を見ながら、いろんなことを考えた。
ひとつは、不快について。
昨日見た現代アートには、いろんな意味でグロテスクなものもあって、久しぶりに少し不快な気分になった。でも、そういえば、世界にも不快なものがたくさんあるのにいつもはそれを避けたり蓋をしたりして生きているから、滅多に不快な気分になっていないということに初めて気がついた。
この「不快を直視すること」は元気なときにしかできない行為だし、絶対にした方がいいかと言うとそうでもないような気がするし、私は心地良いものを見ていたいしつくりたい…。
かと言って人はそれぞれ違う感覚だから不快なものを徹底的に排除することはできないし、排除し続ければ個人が心地良いと思うものも残らなくなると思う。
ちょっと話が逸れたけど、不快感を生むものを見たことで、普段の私がいかに世界の綺麗な部分だけを見ているかを実感した。綺麗な部分だけを見ていても生きていけるのは、環境に恵まれているから?平和ボケしているから?自分に精一杯すぎて他人の地獄を見ている余裕が無いから?
いろんな理由がありそうだけど、こういう感覚になったり考えたりすることが芸術の意味なのかなーと思った。「芸術は問題提起」ってよく言うし。それはその作品のもつテーマだけじゃなくて、広く考えを押し広げることも含むのかもしれない。
ふたつめは、芸術の自由度。
当たり前だけど、絵や彫刻はつくりもので、作者がつくらないとそれはつくられない。っていうことは、創造主の意向によってどんな色にもどんな形にもなるわけで、その世界のルールも自分で決めることができる。
現実そっくりに写しとることは絶対に必要ってわけじゃない。空は緑から黄色にグラデーションしたっていいし、木の枝はなめらかにカーブしていてもいい。
必要なことは自分がフィルターとして見ている対象や頭の中の想像物、ペンやマテリアルに噛むってことで、これがきっと「オリジナリティ」のひとつの解なんじゃないかなと思う。
これはキリコやピカソの絵を見て思ったことだけど、詩にもとても通じると思う。詩も書きたいことを作者の眼差しを通して書き出す行為だし。今まで詩についてしか考えたことなかったけど、もしかすると芸術全般そうなのかもしれないな。だとすると、それってすごく面白いな!そんなことみんなとっくに知ってたのかもしれないけど。
筆の載せ方、言葉の使い方、セリフ回しとか、作家性やオリジナリティって呼ばれるものの正体は、結局その作り手のフィルター度合いというか眼差しの在り方なんだろうな。
オリジナリティの出し方の答えとして、いろんなものを見て、聴いて、読めっていうのがあるけど、それはテクニックを盗むだけじゃなくて、どうしてそれがその方法をとって表現されているのかとかを考えることになるから有用ってことなんだろうなあ。同じ眼差しになろうとするというか。
なんかグダグダ書いてしまったけど、美術館、行ってよかったです。