OTEGARU HAPPY DAY


  • 2025/07/22

    なんだか気分が重い。特に何があったわけでもないから、理由を探そうとする方が野暮だと思ったりする。

    気分が重くても服を着替えて化粧をし、アクセサリーを着ける。私にとって身支度は活動を開始するためのスイッチであり、誰かに会うためにするものではない。

    部屋の窓から、夏の日差しに照らされた屋根が見えた。うーん、暑そう。だけどあまり家に居たくないかもしれない。

    今日は一日中家にいても問題無い日だけど、少しは外に出た方が良いと先生にも言われているし、と頭の中で独り言を言いながら外に出た。

    近くの百貨店の本屋に立ち寄って本を眺める。平積みにされた本を見ていたら、急に今のままでは良くないような気がしてきて泣きそうになってしまった。昨晩も仕事ができないことを痛感する夢を見たし、何かに焦っているのかもしれない。村上春樹のエッセイの次巻を少し探したけれど見つからず、惹かれる詩集も特に無かったので本屋を後にした。

    すぐ隣に喫茶店があったので入ってみる。「ご注文は?」「プリンアラモードのセットお願いします」「お飲み物はいかがされますか?」「アイスコーヒーで」「かしこまりました」やっぱりホットにしてください、が言えなかった。

    プリンアラモードが到着。一緒にバニラのアイスクリームが乗っている。あーあ、やっぱりホットだったなあ。この時期はエアコンで冷え切っている所が多いので、カーディガンは必須だし飲み物は温かい方がおいしく感じたりする。ここの喫茶店のエアコンが弱冷だったのでナメてかかってしまった。溶けてしまう前にアイスクリームを食べ切る。寒くなってきた…。

    平日午前11時過ぎの店内は意外と席が埋まっていて、歳を重ねている人もいれば、大学生くらいの人もいたりする。全人類に生活があるということに思いを馳せて怖くなった経験がある人は多いと思うけど、バスとか駅とか喫茶店とかで生活がほんのり薄く透ける瞬間は怖くなりがちなシーンじゃないのかな。

    喫茶店にいる人たちの生活を感じながら、さっき本屋で感じた「今のままではよくない」について少し考えてみた。働いてないこととお金を稼いでいないことに引け目があるんだろうか。みんなにできることが上手くできなかった私はやっぱり欠陥品なんだろうか。

    …

    プリンも添えられたホイップクリームもシロップ漬けのさくらんぼも、もう食べる資格が無いような気がしてくる。

    やめ。

    自己を破滅に向かわせていこうとする思考は本当に良くない。今日も始まったし、このあと何も無ければ明日だって始まる。大切な家族も友人もいて、絵を褒めてくれる人もいて、私が欠陥品だろうが何だろうが、自己評価がどれくらいであってもみんなを好きなら好きな人たちの評価を信じていいということにしたい。

    私はこのあとプリンもホイップもさくらんぼも食べるし、アイスコーヒーだって寒くても最後まで飲む。やっぱりホットでが言えなくても欠陥品でもみんなと同じように私にもあるこの透く生活を大切にしていく。

    まだ生きていていい。

    2025年7月22日
    2025, July

  • 2025/04/25

    偏見は良いものとされることは少ないけれど、個人の考えがもろに反映されるので面白い。引き続き読んでいる村上春樹のエッセイで、夏目漱石のことをいかにも胃を壊しそうな人ですよね、と書いていて思ったこと。悪く言えば決めつけだけど、ましな言い方をすればイメージということになるんだろう。言い方によるけどそんなに目くじら立てるものではないのかもしれない。人に対する偏見だけでなく、何事においてもフラットに見ていますよ、ということ自体がありえないし、自分は何の偏見も持っていないと思い込むことは危険な気がする。もちろんフラットであろうとすることは悪いことではないんだけど。

    「なかなかどうして」という言葉を目にしたり耳にしたりするたびに、「えーっと、これはどういう意味だったかな」と少し考え込んでしまう。そこで「ああそうそう、思ったよりもという意味でしたね」となることは滅多にというか全く無くて、結局無視することになる。思ったよりも、という意味だったなというのはさっき調べたのでもう忘れないといい。ここで「なかなかどうして」を使って一文書いて締めたかったけれど難しかったので諦める。

    スタバでアイスコーヒーを飲みながら、ここで働いたおかげで少しマトモになったよなあと思う。マトモになったと言うよりは、自分のマトモな部分しか出なかったのかもしれないけれど、感謝している。あのときの店長は元気だろうか。

    携帯にメールの通知が来た。こう書くと、着信音が鳴ってガラケーにテキストメールが届いた、という感じがするけれど、実際はiPhoneに入っているGmailのアプリのバナー通知が表示されたということ。しかも来たのは画像のついたHTMLメール。わ!オルディロン・ルドンの展覧会が開催されているらしい!!!これはとても嬉しい。いつ行ったかわからない美術館のたぶん勝手に登録されているタイプのメルマガでこんなに嬉しい知らせがあるとは!!!メルマガも悪くないか、と思えるのは1000通に1通あるか無いかだとは思うけれど、とりあえずこの美術館のメルマガは解除しないでおく。

    この4月からイラストの画塾に通っていて、きのうは2回目の講義だった。塾生の作品を見たのだけれど、どれも本当にいい絵だったので、もともと無い自信が更に抜けて茹ですぎたほうれん草みたいになってしまった。しなしな。本当に絵が好きな人には敵わないよ、と思うことがたまにある。まあでも私なりに絵は好きだし、言葉くらいには三者三様のものだから、他人と比較するのはやめておこうと努めている。比較!比較が良くないのはそりゃそうという感じだけど。

    なかなかどうして長いブログになった。

    2025年4月25日
    2025, April

  • 2025/04/21

    散歩の途中で大抵は図書館に寄る。家にいるといろんなものからの誘惑がすごくて本に手が伸びないから、図書館で無理やり読むことにしている。あんまり読む気になれないな…というときでもページを繰り始めると読めるもので、やる気はやれば出るという言葉を思い出す。今日は1時間弱くらい村上春樹のエッセイを読んで、芸術関連書籍の棚を眺めて帰って来た。

    図書館を出て並木道を歩いていると、たんぽぽの綿毛が目の前を漂っていった。ほよほよと飛んでいく先を追っていると、ハルジオンだかヒメジョオンだかが視界に入った。これらを美しいと思えること、風を感じられること、豊かだなと思う。そういえば去年は起き上がれない日も多くあったし、朝から散歩するのは随分と難しいことであったような気がする。

    足元に丸い木漏れ日。木漏れ日が丸いのはカメラのピンホールのように太陽の像がそっくり写っているから、という話を絵画技法の参考書で見たことがある。日食時には木漏れ日の形も欠けるらしい。それまで木漏れ日の形なんて気にしたことがなかったし、綺麗だなあとしか思っていなかったけれど、知ってからだと足の裏が宇宙と直結するような感じがしてくすぐったいような気の遠くなるような感じがする。

    ルーティンをつくりたいと思っている。やることを決めてそれを達成するという目標的なものというよりは、生活を平穏に保つために続けるようなもの。ルーティン生活が面白いかはさておき、高い波も低い波も無い凪を保つことが自分の生活には何よりも大切なことだから。英語を毎日30分勉強するぞ!も大事なことだけど、今の私に必要なのは散歩であり、読書であり、コーヒーを淹れること…。と言いつつ、そろそろ英語学習を再開しなければ忘れてしまいそうで怯えている。やる気はやれば出るし、やらなければ出ない!

    あとで調べたら開花時期的にたぶんあれはハルジオンだった。

    2025年4月21日
    2025, April

  • 2025/04/18

    ぷらぷらと散歩していると、道を歩く人たちやバスに乗っている人たちには目的地があるんだろうなと思ってなぜか寂しくなる。今の私は制限時間も無くどこにでも行けるから、道の無い草原を1人で歩いている気分に近いのかもしれない。不安なんだな、たぶん。

    今までどちらかといえば舗装された道路でなくて畦道のような所を歩いてきたと思うけれど、微かな道標すら見当たらなくなってしまった。草っ原を歩いている。大草原不可避。違う意味で。

    遠くで点滅する青信号をダッシュで渡るのは嫌だと思っていたし今も思っているけれど、走るくらい急ぎたい理由があるのも悪くないのかなと思う。

    久しぶりに朝の通勤ラッシュの駅を通る。気分が悪い気がするのはさっきアイスコーヒーを飲みすぎたからだと念じる。

    苦しんでなくてすみません。周りの友人や家族たちは私の幸せを願ってくれているのに、こんなことばかり考えてしまう。これは呪いであり、解くにはそれなりに時間がかかるらしい。

    たぶんそういう人は多いと思うけれど、春に知った曲は春に聴きたくなるし、冬に知った曲は冬に聴きたくなる。春は私にとってandymori、くるりの季節。

    ここ数日と言っても本当に5日くらい、毎日1時間程度歩いている。何かをつくり始めることのないよう、iPadは家に置いて。つくる上で何かを見たり聴いたり読んだりしなきゃとは思っていたけれど、案外歩くだけでもいろんなことに気づく。もうアジサイが咲き始めているな、こんな所にこんな張り紙が?などと。そういえば、「外に出るだけで情報量がすごい」と友人が言っていた。何もつくらないようにしているのに、結局スマホでぽつぽつと文章を綴ってしまうのはもう仕方ないということにする。

    使おうと思ってアプリを開いたら、サービスを終了したとのお知らせ。なんとなくスマホからは削除せずにそのままにしておきたい気持ちだけど、容量が足りなくなったら容赦なく消してしまうんだろう。

    2025年4月18日
    2025, April

  • 2025/04/12

    好きな作家さんの個展に行き、作品を買った。正直言ってそこまで余裕があるわけではないのでめちゃくちゃ悩んだけれど、どうしても部屋に置きたいかつ置かなければならないという気持ちになり購入した。初めて額装もしてもらった。

    届いた作品を本棚に飾り、眺める。いやあ〜、格好良すぎる。カードで分割してまで買ってよかった!これをいつでも眺められることはたしかに豊かなこと!版画でつくられたその作品は、黒が本当に美しく、描かれたモチーフを見ていると、何かを語るには言葉は饒舌すぎるのかもしれないとまで思わされてしまう。

    ふと、版画には筆跡が無いということに気づいた。黒い面はどこまでも黒く、なめらかで、この筆跡の無さというのが吸い込まれるような感覚と奥行きを生んでいるのか…?と感じた。筆跡という壁が無いという意味で。自分で描く絵はPCやタブレットを使ったデジタル作品が多い。いわゆるバケツ塗りをすると面がのっぺりしてフラットになりすぎてしまうので、筆跡の残るブラシで描いたり、紙の画像を薄く重ねたりして奥行きを出している。版画だと筆跡の無さが奥行きにつながっているように感じたけれど、この違いは面白いなと思う。もちろん版画なので紙に印刷されているし、多少の凸凹もあるとはいえ。

    購入した作品は、特定のストーリーではない物語性を感じさせるもの。筆跡が無いことによる奥行きが、さらに世界を押し広げているのだろう。ということは、描かれているものの持つ性質は、媒体や技法に一致させればより力強いものになるんだなあ!と少し感動した。そんなことはものづくりをする人はとっくに知っていることなんだろうし、これを表現したいからこの技法にする!という順番が、表現者には一般的なんだろうなとも思う。でも、もともと特に表現したいものがあるわけではない身からすると、かなり知らない感覚という感じがしておもしろい。

    私が言いたいことなんて、ラブ・ピース・ヘルス、くらいしかないよ笑

    2025年4月12日
    2025, April

  • 2025/04/12

    最近友人に、さくらももこのエッセイをおすすめされて読んでいる。エッセイというジャンル自体になぜか苦手意識があり、読むのは初めての経験。どうしてエッセイが苦手なのかと考えていたら、よっぽど心酔していない限り、知人でもない人にそこまで興味が持てないからなのかもというところにぶち当たった。そういえば、ライブに行くほど好きなバンドのメンバーは名前しか知らず、よく聴いているK-POPアーティストの顔は見たことが無いということも多くある。インタビューも自伝もあまり読むのが得意ではないし。とはいえ「人に興味が無い」というのとは全く違うなと思う。噂話は人並みにすると思うし、SNSで知り合いの発信を見るのも好きだから。関わりがある人にしか興味が持てないというのも貧しい気がするけどな…。

    今読んでいるのは『もものかんづめ』という本。サンプルが無いのでエッセイ全般がとは言えないけれど、話すのが上手い友人のおしゃべりを聞いている感じがする。なんというか、大きな出来事ではないからこそ、自分にも起こりそうもしくはすでに起こったことがある、そういう親近感がある。ページを繰る手が止まらなくなる感覚は無いけれど、タイミングを選ばずに読める読み物だなと思う。小説の主人公の思いに自分を重ねたり、新しい知識を得たりするのとはまた違う読書体験。つまり要するに、おもしろい。笑

    日記帳に書かずに、周囲に見えるブログにいろいろと書き続けて15年以上が経った。中学時代のamebaブログもまだログインできる状態で残っている…。エッセイの定義を調べたら「自由形式で意見感想などを綴った散文」ということみたいだったけど、「これはエッセイです!」って言えば、すべての個人的なブログはエッセイになるんじゃないかと思ったりする。でもここで書いているのはブログ以上にも以下にもならないな。笑

    2025年4月12日
    2025, April

  • 2025/04/01

    最近そんなに落ち込むこともなく、破茶滅茶なハイテンションになることもなく、元気に過ごしている。幸せな出来事もあり、非常に穏やかだと思う。

    この状態はとてもいいことだと思うのだけれど、こんなに穏やかで幸せな時間が長く続いていることに対して違和感もある。というのも、こんなに安定した毎日が継続していた過去は無いし、苦労している人もいるのに私はこんな好きに過ごしていていいのか?と思ってしまうからというのがある。

    私が不幸でも幸せでも、周りの人の夢が叶ったり戦争が無くなったりするようなことはないのに、なぜかどこか自分で自分を陥れる必要があるように感じてしまう。同じように、というか、それ以上に苦労したり不幸になったりしなくちゃいけない気がする。これは本当に呪いなのかもしれない。幸せなら幸せでいてもいいはずで、西の魔女が死んだ的に言えば、シロクマはシロクマが住み良い所に住んでいても誰も咎めたりしないわけで。

    とは思うものの、全てが上手くいきすぎている気がして怖い。生活も、やりたいことも。ずっと幸せでいてもいい、自分が幸せになってもいいと思えるようになることは、なかなか難しいのかもしれない。幸せを幸せのまま、受け入れられるようになりたい。

    病気は治していいし、好きなことをしていいし、苦手なことを無理にやる必要は無いし、自分を破滅させようとしなくてもいい。頭ではわかっているはずなんだけどなあ。

    2025年4月1日
    2025, April

  • 2025/01/17

    昨晩はソファで寝てしまい、早朝に目が覚めた。お風呂に入り淡々と身支度をして、出掛けようとしたときに動けなくなってしまった。

    ここのところほんのりと調子が悪く、あまりハツラツとしていない。何かが不安なのだと思うけれど、それが何なのかとかどうしてなのかとかはあまり考えないようにしている。奥深く潜りたくないから、それでいいのだと思う。

    画塾に通うことに決めて、絵をもっと本格的に学ぶことにした。好きなものをただ好きなように描けた時期は過ぎたみたいで、今は何を描いても「下手だな」としか思えなくなってしまった。前からこの感情はあったものの、完全に楽しいという気持ちを上回っている。

    絵に説得力を持たせたいと感じるようになり、やはり基礎的な描ける技術が必要なんだなと気づいた。上手くなるために、スケッチしようとしてみたり人体の骨格を描いてみようとしてみたりもしているけれど、継続していくことだけが近道であり道なので、かなりつらい。が、これは乗り越えるしかない。

    詩に夢中だったときも途中で気がついたけれど、よい作り手は、作り手である以前によい鑑賞者なのだと思う。よさを見つけることができないと、それを作品に落とし込むことができない。でも、よさが分かるなら模倣して取り込めばいい。

    ということで名画と呼ばれる絵がどうして名画なのかを知るべく、入門書を読んでみたりしている。一見感覚任せに描かれている絵が、思っていたよりもずっと構造的かつ必然的であることがわかってなかなかおもしろい。これなら真似できるかもしれないと思う。感覚だけで描かれていたら絶望していた。

    学び、練習し、応用するという基本的な勉強をただひたすら続ける。「とにかく描け!」だよなあ。

    2025年1月17日
    2025, January

  • 2025/01/05

    年が明けた。

    年末年始は実家に帰省した。本当は1/2に自宅に戻るつもりだったところを急な予定が入って1/5に変更した。今は朝イチの新幹線の中。冬の6時はまだ真っ暗で、夏の朝が恋しくなる。

    年が明けたからといって何かが変わることはないけれど、今年はどんな1年にしようかなと考えている。1年は人間が勝手に区切っただけだけど、これのおかげで心機一転とか気持ち新たに、とかできるわけだから、区切ってくれた人にありがとうと思う。この単位が無かったら歳を重ねることもなく記念日も無いだろうから、全てがグラデーションだったんだろうな。それはそれでおもしろいか。

    どんな1年にしたいかといえば、もう自分と大切な人たちの健康と健康と健康以外には無い。子供の頃、七夕の短冊に親が書く「健康でありますように」をつまらない願い事だなあと思っていたけれど、健康がどれほど大切で貴重なものなのかがこの歳になってわかってきた。そしてそれを願ってもらえる人がいることが、とても幸せなことなんだということも。

    小学生の頃からつい最近まで、人生は30歳までに終了させるつもりでいた。でも、だんだんと健康を願ってもらえる人の存在に気づけるようになったし、私が願いたい人もできて、終わらせるわけにはいかなくなった。終わらせたくもなくなった。

    今年は4月で30歳になるけれど、まさか自分が30歳になる年を迎えることができるとは。純粋な驚きがあると同時に、誕生日を素直に喜べそうなことがとても嬉しい。

    キャリアは何も積めていないし、大きな夢も叶えていないし、特段スキルも無い。それでも、胸を張って今は幸せだと言える。

    生きてきてよかった。

    こんなことを書いていたら朝日が昇ってきたらしい。

    夜が明けた。

    2025年1月5日
    2025, January

  • 2024/12/02

    文学フリマに参加した。遊びに行ったことは何度かあるけれど、出店は初めてだった。結局、知り合いにしか買ってもらうことはできなかった。値段が文フリの相場より少し高かったことが、手に取っても購入に至らなかった理由かなとは思う。でも、買ってくれた人、見てくれた人がいる。それだけでいい。そもそも買ってもらうことよりも、出店してみることに意味があったから、良かったんだと思う。

    文学フリマを経て、詩の活動は区切りになったような気がする。詩や言葉に対する執着が以前ほどではないこともあって、まあとにかくいったんおしまいかな。今すぐじゃないけど、Xアカウントも閉じようかなと思っている。置いておいてもいいけど、やっぱり名前がいくつもあるのは心地よくない。自分で始めたことだけど笑

    また詩を書きたくなると思うし、これからも書くことはやめないと思うけど、公開するかは微妙だなあ。なんというか、ちゃんと読んでもらえないのはもうわかったという感じ。そもそも詩に興味がある人は少ないけど、私に興味がある人はもっと少なくて、それをガンガン広げていく元気も無ければ欲も無い。社会との繋がりを失って、話す人もずいぶんと減って、私に興味があると思っていた人や、創作を気に入ってくれていると思っていた人はみんな社交辞令だったのかもしれないなあと思うと、なんだかすごく寂しくなってしまった。要するにちょっと心が折れた。正直ネットショップで数人は買ってくれると思ってたから、みんな住所知られたくないから買えないってだけであってほしい笑 まあちょっと値段落としてデジタル版を登録してみよう…話はそれからだな。いや、というか作品が魅力的じゃないからだろ!馬鹿者!

    いいねしてくれるだけでも全然嬉しい、本当に心強く思う。いいねって思ってくれてありがとうって思う。と、同時に、好きなバンドとかイラストレーターとかには目に見える応援をしたいなと思った。それはそれこそお金を落とせなくてもいいねだけでもコメントだけでもいいし、それが力になるっていうのを実感したから。

    詩に限らず創作意欲が無くなることはないと思う。認められれば嬉しいけど、もともと承認欲求でつくってるわけでもないから。とにかく、今応援してくれる人を大事にしよう、全員にとかより多くの人にとか思わないようにしよう、と思う。

    つくることが好きだし、小さい頃からずっと続けてきたことを今更やめるとかやめないとかなんかそういうことは無いけど、もうウケとかどうでもいい。ウケない前提に立ち返ることにしよう。ここ数年、私のつくってるものにしては褒められすぎたんだと思う。創作を通じて私のことまで好きになってもらえてると思ってたのかもしれない。待って、それが承認欲求じゃないの?笑

    いいや!絵描こ…!

    2024年12月2日
    2024, November

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